「身体・時間・空間すべてが消滅した果てに」 『ディアスポラ』グレッグ・イーガン著
SFに描かれる都市空間は空想の都市ビジョンだ。80年代、「ニューロマンサー」三部作、「ブレードランナー」が立て続けに発表され、共に日本の都市風景を参照する。高密でぬるぬると汚れた都市の暗部でアクションシーンだけが輝き、日常は対照的にどんよりとした暗さと重さで描かれる。明るくない近未来像。その後もSF映画の都市空間にはなぜか同様のダークなイメージがつきまとう。「未来世紀ブラジル」「JM」「マイノリティ・レポート」「マトリックス」・・・いささか陳腐化したSFの空間的呪縛。この状況をシフトする理論的体系と空間イメージが必要だ。グレッグ・イーガンはこうした可能性に今、最も近いところで創作を行っている作家ではないだろうか。(*1)
「ディアスポラ」について
タイトルのディアスポラは、国外への集団離散・移住を意味する。
あらすじに絡む詳述は避け、ここではその設定について記すにとどめる。ただ、私はこの作品を、イーガン作品のなかでも圧倒的に特別なものだと考えている。近代建築に例えるなら、コルビュジェのドミノシステムやミースのガラススカイスクレーパーのドローイングに相当する抽象性と透明性とを備えている。
○身体の消滅
まず、主人公が人ではない。<創出>というソフトウェアが仮想空間上に意図的に送り出した親を持たない人工生命。当然のこととして身体は存在しない。自己もソフトウェア、周囲の環境もソフトウェアであるため、個人のアイデンティティを保証するものは甚だ曖昧になる。個人の境界、仮想の皮膚にあたるものを形成するのは界面ソフトと呼ばれ、それもやはりソフトウェアに過ぎない。人々の人格はすべて「スナップショット」として一瞬で、無数にクローンされ、必要に応じてバックアップがとられる。
○時間の消滅
正確には時間概念の大きな変化。時間が止まったり逆に流れるようなことではない。コンピューターの処理速度で決まる800倍速の「タウ」を単位とし、仮想空間上の人々は800倍速で生きる。ソフトウェア化した彼らに寿命は無い。無限の生命を得た人々は適宜、自らの知覚処理スピードを低速に設定することで外部の出来事を高速化する、あるいは凍結・覚醒することで数千年の時を一瞬でやり過ごす。
○空間の消滅
人類の大部分は肉体を捨て、仮想空間に移入、ポリスと呼ばれる仮想都市で暮らす。人々にとって、この時点で物理的な空間の多くは不要になる。が、本作品はそれにとどまらない。ポリスを動かしているハードウェア自体も極小に分割+無数にクローンされ、ワームホールを通じてN個の多宇宙にばら撒かれる。多次元空間が描かれる。
全てが消滅した果てに
以上、ディアスポラの状況設定のみを記述したが、実はSFにおいて、何が可能で何が不可能かという状況設定は常に作品の根幹をなす。フィクションである以上、その設定は理屈のうえでは無限に自由だが、物語を成立させるためには現実社会とのリンクやフィクションそのものの説明が必要となり、SFはエネルギーの大半をそこに注ぐ。ディアスポラが絶妙なのは、この設定をストーリー展開に合わせて自然に増強し、最終的にフィクションレベル100%:既存の制約がすべて解除された状況がつくられていることにある。
イーガンは登場人物を、身体・時間・空間に制約されない存在に進化させる。身体・時間・空間すべてが消滅し、ストーリーのなかでそれらが必然的な要因であることをやめる。制約がないので考えたことが殆ど何でも可能となる。しかし神のように、単なる絶対的な存在として描かれるのではない。登場人物との共同体験にわれわれを引き込んでいくためにイーガンはあらゆる手段でひとつずつ、状況転換を起こす。そして最後にすべての縛りが無くなり、我々は完全にフリーな存在として宇宙に立つ。
既存要因の全面的な規制解除。いわばSFの究極のかたちともいえるこの「全解除」設定を行ったのは本作品が史上初ではないだろうか。SF史において記念碑的な到達点であり、この状況を体験するためだけにでも一読に値する。
登場人物の一人パオロが自らのクローンから受け取るメッセージ:「際限のない選択肢がある。(中略)ぼくらは、宇宙に存在することの意味を知る必要がある」。本作ではあらゆる制約からフリーになった知性が、自らの存在をかけてこの問いを探求する状況が描かれている。その結果、身体・時間・空間すべてが消滅した果てに、完全に透明な存在としての生命があらわれる。
グレッグ・イーガン著「ディアスポラ」(1997年) ハヤカワ文庫SF(2005年刊行)山岸真訳
(*1)イーガン作品との出会いは2年ほど遡る。筆者が山代悟氏と共同主催するurban dynamics laboratoryが2004年に出版した雑誌で、SFに描かれた都市空間について磯達雄氏に論じていただいた。そこで最後にひとり、現代作家としてイーガンが紹介されていた。磯達雄 「メタボリズム都市はダイアスパーの夢を見るか」/「URBAN DYNAMICS」に収録、南洋堂書店のみで取り扱い。
初出:住宅特集2006年8月号「私の一冊」
『ディアスポラ』グレッグ・イーガン(1997年)ハヤカワ文庫SF(2005年刊行)山岸真訳
